ゴミの生活(四代目)

最近はアマプラをdigってます

死者が聞こえる――いとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社)

暗闇の中、木に引っかかったDJアークが、想像の声をリスナーに届ける番組「想像ラジオ」。時刻は夜の2時46分。DJアークの身の上話からスタートし、リスナーからのメッセージ紹介、ときどき挟み込む曲。「もしかしたら自分は」と思いいたって1章は終わる。


2章、4章は想像ラジオの外の話。2章には福島県で震災ボランティアをした人たちが、帰りの車でしている「死者の声を聞く」ことについての話。4章は、そのメンバーの一人(作家)が、亡くしてしまった恋人との「想像の対話」。


3、5章では再び想像ラジオ。アークが、今は連絡が取れない妻と子供と言葉を交わす。


震災後文学。テーマは死んでしまったものの声。死んでしまったものの声はどうやって聞けるのか。そもそも聞こえるのか。(科学的には)聞こえないけれど、それを(文化的に)聞いてしまっていいのか。声が聞こえると「僭称」してしまっていいのか(イタコ問題)。アークは最後、自分の記憶と他人(リスナー、その他)の記憶がぐちゃぐちゃになる。死者の声もこんな感じなのだろうか? 周りの者は、どの程度まで死者の声に近づけるのだろうか。遺族? 友達? ボランティアで訪ねた先の声を「聞こえる」と言っていいのか。


たぶん身近な問題。311の津波でたくさんの人が突然に、一度に死んでしまったから、皆、直面せざるを得なかった。けれども、死者はつねに私たちの身近にいる。ただ日常の中での死者は、弔いの儀式が(それなりに)あるので、普段はあまり考えない(ようにできている)。『想像ラジオ』で比較されるのは、広島長崎、過去の戦争、昔の災害。「忘れないで」というのは過去の出来事で、今の出来事には、そう軽々しく「死者の声を代弁」なんてできないのではないか。


ラジオは災害時のメディアだと思った。受信機がシンプルで、発信も比較的、楽だ。声を伝えるラジオは、とてもパーソナルな感じを与える。耳元でささやく。仲間意識や連帯感が生まれる。311の情報収集は私もラジオだった。テレビはなくて、ネットを引いていない家だった。スマホもなく、それでもネット情報(Twitter等)を見たかったので、定期的にネカフェには足を運んでいた。『想像ラジオ』のリスナーの声・反応はニコ動のコメントみたい。小説なのでリニアに読むが、映像表現であれば、一画面に収まるだろう。


死(他者)という究極的にパーソナルなもの。それを共同体的に吸い上げ普遍化しようとする。ここにも文学の働きが見える。