ゴミの生活(四代目)

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ぼんやりとしたディストピア――多和田葉子『献灯使』

献灯使

献灯使


震災後文学。短編集。ここでは表題作「献灯使」について。


未来。鎖国した日本。外来語を使うことも禁止されている。外国の地名に言及することも避けられる。子供は、生まれたときから病気。とにかく虚弱。大人はなぜか長生き。語り手は曾祖父=義郎、その曾孫=無名。


貸し犬と猫の死体以外に動物を見かけない。東京の23区には人が住めない(長く住んでいると複合的な危険にさらされる地区)。最近の子供は9割は微熱を伴侶に生きている。果物は一個しか買えない。銀行は破綻、職業学校は役に立たず。孫の飛藻(とも)が、義郎の言うことを聞かなかったが、大人の言うことが常に正しいということはない。本州からたくさんの人間が沖縄へ移住。夫婦のみ許される。義郎の一人娘=天南とその婿は60代で沖縄に移住。手紙は来る。良い事が書いてあるが、それが本当のことなのかもはや確かめる術はない。メール(ネット)はおろか電話もない。


義郎は妻・鞠華とデモで知り合う。彼女は「うばぐるま運動」に没入。乳母車に乳幼児を連れて母親が喫茶店等に集まり、未来のこと・健康のことを話しあう市民運動。やがて親のもとに帰りたくない子供を引き取る施設「他家の子学院」を運営するように。今は別居している。優秀な子供を選び出して使者として海外に送り出す極秘の民間プロジェクトの審査委員でもある。


震災後のディストピア日本。暗い。暗いけれど、政府や官憲による圧迫・弾圧が目に見えて描かれているわけではないので、「衰えていく」というのが正しい形容詞か。積極的に弾圧するのにも体力はいるわけで、そんな力がこの未来の日本からは感じられない。語り手が老人、というのもその要因の一つだ。しかもただの老人ではなく、スーパー老人。


同じく収録されている「不死の島」という短編から、続いていると思われる。スケッチ程度の「不死の島」では筆者は物足りなかったのだろう。年よりは長生きし、子供は(年寄り基準で考えると)虚弱。科学的にはおかしな事象だから、比喩的なものともいえる。大人が背負う罪、といったように。無名の学校の先生は、それを「進化」と呼びたいようだが。


全体として、非常に語りにくい作品。なぜだろうかと考えてみたら、散漫だからというのが自分の答え。義郎のだらだらした語り。断片的に(しか)見えてこない日本の様子。世界の様子なんて、ほとんど何も見えてこない。鎖国だから仕方がないのかもしれないが、鎖国以前の記憶をもつ義郎なら少しは語れるのではないか。語る気力、必然性を感じないのか。タイトルになっている「献灯使」が最後になってちょっと出てきて、でもやっぱりよくわからない。新しい子供像、海外へ行ける献灯使が未来へのカギだ、という肯定的な見方も共有できない。肯定的に描こうというのであれば、ラストが知りきれトンボすぎないか。教師に「進化しているのでは」と言わせるが、そうも超能力が使えるわけでもなく、進化っぽさを感じられない。車椅子で白髪の子供というと大友克洋の『AKIRA』を連想するが。そこまで「新人類」にこだわらないのも、SF作家でなしに純文学作家らしいところ。SF作家なら、もう新人類ムハー。「これは○○SFである」と断言できるのがエンタメ小説でもあるSFのジャンル。対して、どうにもこの作品はぼんやりしている。


それを意図したのだと言われれば、はいそうですかとなるが。語り手をスーパー老人に選んでいる時点で、物語全体に衰退色がにじみ出ている(これは意図したものだろう)。国家や政府といった大文字の敵も不在だし(不要だし)、曾孫の養育という家族の絆が焦点となるのも、当然と言えば当然か。エンタメ小説としてのSF内に収めようとすると、失敗するな。そりゃあそうか。