どうやって言葉を紡ぐのか、葛藤というより困惑か――辺見庸『瓦礫の中から言葉を』(NHK出版新書)
- 作者: 辺見庸
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2012/01/06
- メディア: 新書
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宮城県石巻出身の辺見庸が、311震災直後に語った言葉。元は2011年4月に放送されたNHKの番組。だから震災後、かなり早い時期に世に出た本。そのため全体的に論点が拡散している気がするが、そもそも一つの事象を一点のみから精密に論じるといった種類のものではない。筆者の筆のさ迷いそのものが感じられるのも、この本の性質だろう。
ジャーナリストであるが、詩人でもある辺見。自作をちょくちょくと挟みつつ、広島の原爆(文学)や関東大震災後の作家の言葉を引きつつ、戦争・災害に直面した人たちの「言葉」と、今の私たちが使っている「言葉」を比較。キーワードは「空の言葉」。
「大震災は人やモノだけでなく既成の観念、言葉、文法をも壊した」
「311以降、インフラやハードウェアだけではなくい、言葉もまたとても深刻な機能不全に陥った」
311はその後、膨大な言葉がメディアにネットに溢れ、情報を求める人たちは情報の津波に飲み込まれてしまった。(いまでも完全に情報の津波がおさまったとは言いがたい。)言葉がたくさんあっても、自分が求めている情報は得られないというジレンマを「空の言葉」は意味している。
辺見にとって原発事故は「ありえないもの」だったらしく、たいそう衝撃を受けていた。しかし、これは過信だろう。反原発の人たちは震災以前もいたし、そもそも原発を誘致している地方の人間にはそこで働いているものもいるし、間近でちょっとした事故は目にしているはず。原発が決して事故を起こさない、なんて信じている人は311以前も少数だったのではないか?(特に、立地自治体であれば)何をそんなにショックを受けているのだろうか、と思ってしまったが、ドライすぎるだろうか?
広島との比較。
辺見は「福島原発から放出された放射性セシウム137は広島に投下された原子爆弾の168個分」という一文に注目をする。なにか恐ろしいことを言わんとしていることはわかるが、それが何かをつかめない。この辺見の感覚は、確かに理解できる。しかし辺見は、このセンテンスの意味を考えるために、原爆文学を参照する。果たしてその比較は適切であろうか? セシウムという放射性物質だけに注目するなら良いのかも知れない。でも、原爆と原発は違い過ぎないだろうか? 広島で死んだ人は放射性セシウムのために死んだわけではない。爆発の熱でたくさん死んだのだ。そもそも原爆は人を殺すためのもの、兵器だ。原発は危険性はあるとはいえ、あくまで発電するための装置である。設計理念が全然、異なる。
不用意に広島原爆文学を参照することで、311の原発事故の姿を正確にとらえそこなってしまうのではないか?
関東大震災は10万人が死んでいる。当時の人口比率から見ても、被害の規模は311以上だった、と辺見は言う。なぜ311ほど以前・以後を語られないのか? あるいは当時は語られたのだが、90年前のことだからもうすでに歴史化されてしまったのだろうか。この辺はもう少し詳しく知りたい。
ちょくちょくマスメディア批判がはいる。5年経って振り返ってみて、マスメディアは「よくやっていた」のだろうか? 辺見は「死者を数としてしか伝えない」と批判しているが、本当にそうだったろうか? そうだろうか? 311直後は数だったかもしれないが、やがて様々な個人の話が語られるようになったと思う。(震災とはズレるが、最近のマスメディアは災害・事故の被害者のパーソナル・ヒストリーを過剰にクローズアップしていないだろうか? スキーバス事故しかり…)
これも辺見の本とはズレてしまうが、他に書くところがないので書いておく。3月11日が近づくとマスメディア(特にテレビ)はこぞって被災地に人を派遣し「復興」(かぎカッコつき)の様子を伝え、「頑張ろう」といわせる。それは一面。一面だけでもライトが当たることはよいのか。駆け足にやって来て駆け足に去っていく(ことも多いだろう)。それでもいいのか。ちょっとでも注目されれば本当の復興につながる、という声もあるのかもしれない。いずれにせよ聞きたいのは当事者の声であって、当事者に会いに行っているタレント達の声ではない。某めちゃなんとかというバラエティ番組のCMを見ていて、ふと思ったのだった。