ゴミの生活(四代目)

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何かが足りない――三崎亜記『メビウス・ファクトリー』(集英社)

メビウス・ファクトリー

メビウス・ファクトリー

(本文753文字)

三崎亜記の小説は結構読んでいる。ざっとwikiで見たら8冊は読んでいる。好きか嫌いか聞かれたら、好きな部類に入る作家なのだと思う。が、読後にいつも感じるものがある。「何か足りない。」三崎亜記の小説を読み終わると、ほとんどいつもそう思う。「何か足りない。」でも、何が足りないのだろう? それがうまく言語化できず、その何かを突き止めようとしているのか、新刊が出るたびに手に取る。

メビウス・ファクトリー』は巨大企業ME総研の城下町での話。会社・工場で働く人間しか生活していない閉鎖的な町。紙幣も流通せず、独特の言葉遣いやルールが支配。町の外へは、基本的に出れない(出る必要性がなくなっている)。工場で作っているのはP1という「謎の製品」。ロボットなのか? 機械のパーツなのか? 正体はよくわからない。ME総研「だけ」が作れるとても大事な製品。日本中から感謝の手紙が送られてくる。工場労働者は(比喩ではなく、文字通り)心を込めて作り、心がこもっていない製品は鑑定士によってはじかれる。

視点人物は、この町にUターンしてきた見習い労働者。鑑定士見習い。ベテラン作業員。町に溶け込もうとするもの、溶け込んでいるもの、溶け込めないもの。際立つのは町の異様さ。心が欠けたP1は重篤な「汚染」を生み出し、やがて町はパンデミックに襲われる。(この辺、ポスト311でもあるのだろう。)

三崎亜記の小説は、リアリズムなのかファンタジーなのか? 独特な言葉を使ってその世界をきっちりと構築するのはリアリズムのようだが、どこかファンタジー的な、合理では割り切れないもやもやが物語には残り、「何かが足りない」と読者に(少なくとも私に)感じさせている。っていう感想は、いつも思う。今回も思った。具体的に言えば、「空虚の中心」たるP1の存在が、いまいち受け止められない。