ゴミの生活(四代目)

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21世紀のリアリズム小説――デイヴ・エガーズ『ザ・サークル』(早川書房)

ザ・サークル

ザ・サークル


 全てを丸裸に。
 プライバシーは罪。

 グーグルとアップルとフェイスブックを合体させたようなシリコンバレーの情報産業企業サークル。友人のアニーの計らいでCE(カスタマーエクスペリエンス)に就職できたメイ。客の問い合わせに答える単純な仕事だが、すぐに実力を発揮していく。サークルはSNSを前面に売り出す企業で、サークラー(サークル社員)も積極的にSNSで発信しなければならない。顧客の、もっといえば市民の憧れの対象でなければならない。「課外活動、なにそれめんどくさい」では通用しない。サークラーの人気ランキングも用意されていて、ランキングが低いメイは上司のお叱りさえ受けてしまう。
 前半はメイがサークルという会社とその文化に慣れるまで。
 後半はメイが透明化したあとの話。
 透明化とは何か? 24時間、自分の振る舞いをネット上に中継し続けること。そもそもは政治家が自らの説明責任を果たすために始めたこと。一人が始めると、山火事のように透明化の波は広がっていく。だって「透明化しないのはやましいからだろ」といわれてしまったら、政治家には反論する言葉がない。紆余曲折があり、メイもまた透明化することになるのだった。

 SNS全盛の現在の延長線上に浮かび上がる(かもしれない)社会。ディストピアであるが、当事者たちはユートピアと信じてやまない。社会が変化する中で価値観もまた変容し、その変化のただなかにいるから、相対化・客観視できないのだ。
 でも、メイやサークラーの透明化への欲望はアダムとイブまでさかのぼることができる。隠すことが罪である。後ろ暗いところがあるから隠す。何も悪いことをしていなければ裸でいれるし、裸でいること(透明化し、24時間、実況生中継)していることが、何も悪いことをしていない(パフォーマティブな)証拠となる。だからこのディストピア、やっぱり当人達のなかではユートピアなんだろう。サークルが閉じて完成したあかつきには、エデンの園へと通じるのだろう。

 キラキラと輝かんばかりに描写されたサークルのキャンパス(会社)は、やがて不気味な光を発する。対してメイが田舎町においてきた野暮ったい・古めかしい・保守的な両親と元恋人の姿は、私たち現代人の等身大の姿であり、最後には感情移入の対象となる。持ち上げて落とす、落としていて持ち上げる。評価を交差させるエガーズの手つきは上手い。
 オンライン上で、どれほど熱心にやりとりしようとも、世界を変えるには誰かが実際に手と足を動かさなければならない。「いいねボタン」ではなく、本作では「ニコマーク」や「ムカマーク」なのだが、どれほどこれらのマークが流通しようとも、その流通だけでは世界はピクリとも動かない。けれど、動いた(動かした)気になってしまうのも、また事実。それはおそらく人間が承認の中で生きている、極めてコミュニカティブな動物(社会的な生き物)だからだろう。何もしてなくても、何かした気になってしまう。ああ、恐ろしい。

 テクノロジーと人間の関係も考えさせられる。新しいテクノロジーが登場すると、それに合わせて人間の精神も刷新されるなんてことがSFでは頻繁に描かれる。テクノロジー進化論、とでも呼ぼうか。でも、そんな簡単ではない。人間は車ひとつ扱えない。車ができて100年以上たつが、いまだに上手く乗りこなせていない。そうでもなければ、毎年数千人人は亡くなっていないだろうし、1分間に1回のペースで自動車事故は起きていないだろう。結局、車というテクノロジーが登場したところで、人間の精神は時速60キロの世界にアップデートされたわけではないのだ。
 SNSの登場においても同じことが言える。情報の共有が効率化・最適化されたことで、それまでコストが高いから(物理的に)不可能であったことが可能になった。友達がどこで何をしているか瞬時に知れたり、自分がどこで何をしているか瞬時に伝えたり。SNSの様々な機能は人間精神に働きかけるが、結果、人間が進歩・進化したかというとそんなことはなく、従来からもつ承認欲求、それと表裏一体の自己表現欲を、昂進させただけだ。こじらせた、といってもいい。
 そう考えると、人間ってたいしたもんじゃないよな。どこまでいっても、どんなテクノロジーが出てこようとも、結局は、しょうもないことで一喜一憂する。そしてテクノロジーはその「しょうもないこと」を、この上なく前景化する。
 
 21世紀のリアリズム小説。