ゴミの生活(四代目)

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なんとなく、疲れてる――田中康夫『33年後のなんとなく、クリスタル』(河出書房新社)

33年後だ。

主人公はヤスオ。『なんとなく、クリスタル』で大学在学中に作家デビューをし、その後、小説家として活躍。長野県の知事、国会議員もやったことがある。数年前に年下の女性と結婚。…ということで、プロフィールだけみるとほぼ田中康夫本人。

他に『なんとなく、クリスタル』の主人公・由利が登場する。いちおう『なんクリ』は田中が知り合った現実の人間をそのままトレースしているという設定なのだ。だから『33年後』には、文字通り33年後の彼女たちが出ている。由利は、同棲していた淳一と結婚…することはなく、そそくさと別の道を歩み、フランス系の化粧品会社へ就職。今では子宮頸がん予防ワクチンの啓発活動にも携わる。

登場する妙齢の女性の何人かとはヤスオは(性的含む)関係を持ったこともあるようで、その手の自慢話がところどころ開陳される。ただ、彼女たちも、そしてヤスオも年を取ったのは確かで、病気・家族・子育て・仕事の悩みは、ある。『なんクリ』よりもずっと社会派風なのは、知事や国会議員を経たヤスオが述べる自説のため。阪神淡路大震災東日本大震災の折にはボランティア活動にも従事していたと書かれており、これもまた社会派風にしている。(ただ、「社会派風」であって社会派じゃない。)

『なんクリ』同様に膨大な註が付いている。巻末にまとめて横書きで。

田中康夫が「ペログリ」という言葉で自身の女性関係をどこかで書いたという程度の情報しか知らない。だから、ここに書かれているヤスオの女性遍歴が康夫のものなのかどうかは、わからない。もっといえば『なんクリ』の由利が実在しているかどうかも、わからない。(限りなく怪しい。)

由利が直面している悩み、「微力でも無力じゃない」と信じたい気持ちは、よくわかる。よくわかるというのは共感できるというよりも、そのような悩みを抱えているということが理解できる、という意味だ。これだけ切り取っても良かったのではないか? つまり、ヤスオが出てくる必要だったのだろうか? それに、ヤスオが登場することによって『なんクリ』を「自分の登場しない自伝小説」へと変換してしまったわけだが、それをやる必要はあったのだろうか?

あったから、やったんだろう。
じゃあ、その理由はなんだろうか。

一つは33年前の自分は無名だったから。デビュー作に自分を出しても「はぁ? 誰?」となる。が、33年後に舞台を設定して「あの作家のその後」を書けば、気になる人も出てくるだろう。

あと、自分が今までやってきた33年間を肯定したかったというのもあるだろう。『33年後』を自伝小説にすることで、遡って『なんクリ』も自伝小説(ただし自分は登場しない)へとするアクロバット付きで。

でもまあ、当たり前だが、年取ったんだな。直接にこれ、というのではないけれど、全体的なトーンが「疲れている」ようにも思えたのはなぜだろう? 大病をしたことも関係しているのか。政治家をやめた(落ちた)ということも? 年取ると、こんな感じになってくんかな。これと『なんクリ』しか読んだことがないので、「康夫節」とくくってよいのかわからないが、時たま披露される自慢話が鼻につき、そもそもの本筋もあってなきがごとくなので、そんなに面白い小説ではなかった。生ものというか、なんというか。