ゴミの生活(四代目)

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悪が生まれる――村上春樹『約束された場所で アンダーグラウンド2』(文春文庫)

約束された場所で (underground2)

約束された場所で (underground2)

村上春樹オウム真理教の信者(元も含む)インタビューしたもの。巻末には河合隼雄との対談も収録。地下鉄サリンの被害者たちの話はすでに『アンダーグラウンド』にまとめられていて、その作業をしながら村上はやはり加害者側にいるオウム真理教信者の話も聞かなければならないという気持ちになる。肯定するでも、否定するでもなく、内部で一体何が起こったのかを知るために。


オウム信者は8人。98年当時もまだ信者であるもの、既に脱会したものもいる。さすがに教祖麻原の教えを全肯定しているものも、地下鉄サリン事件オウム真理教と全く無関係であると言うものもいない。自分なりの距離感をとって、事件とオウムについて見ている。


ただ、彼ら彼女らはオウムでの修行体験や神秘体験そのものを必ずしも全否定しているわけではないのだ。意外といえば意外。でも良く考えてみれば、そんなに驚くべきことではないかもしれない。オウムが(批判的な意味ではなく)社会的な注目を浴びていたとき、あるいはそれよりもさらに前のヨガ教室であったころに、社会に対する違和感を覚えたり、自分自身に不安を感じた結果、オウムの門を叩いたものたちにとって、オウムが提供する(サービスする)ヨガ体験や教義は、それなりに興味深いものであったのだ。これは紛れもない事実。その教えがどんなに(専門家から見れば)まがいものであったとしても、一定の集客効果はあり、資本主義砂漠にさ迷える魂をとりこにしたのだ。


オウムが暴力路線に進んだとき、勘の良い信者であれば気がついたようだ。巨大な化学プラントを目の当たりにし、さらに薬品が漏れていることにも気がつき、なんかやばいことやってるなと感じるものさえいた。指導部の変化、それを原因とする教団内の空気の変化も、末端まで伝わっていた。(…全員ではない。警察の強制捜査が始まる直前まで、よくわからなかったという人もいたので、全員が感じていたというのは問題があるが。)


村上春樹が考えたいのは、悪だ。地下鉄サリン事件は悪。では、この悪はどのようにして生まれたのか? オウム真理教というシステムが、そもそも本来的にこの悪を内在していたのか? それとも麻原という「カリスマ」的指導者が、途中で道を踏み外し、それに追随せざるを得なかったものたちが、結果として集団で引き起こしたのか? 村上春樹は、信者や河合隼雄との話の中で、欲望や煩悩と戦うことを、自分の判断力やアイデンティティを外部委託(この場合はグル=麻原)してしまうことと混同してしまったのではないか、と問う。煩悩や欲望は、自分と社会の摩擦、現実の自分と理想の自分のギャップが生み出すもの。それを克服するのもまた自分人である。が、自分を捨て、自分は思考停止し、他の偉い人に判断をすべて任せてしまう。これがオウム真理教のシステムとしての問題だったのではないか?


翻って、現在。現在の悪とは何か? それはヘイトであると私は考える。オウム真理教は妄想をたくましくしてきた。しかし、あくまでもそれは現世(世間)とは隔絶された空間=サティアンにおいてだ。ファンタジーが増幅される物理的空間にいた。外部からの情報は制限され、教義に従って修行に励む空間。彼らの使う言葉も(エセ?)宗教的なものであり、世俗のものとはかけ離れている。こうして囲まれることで、当然、妄想も現実味を帯びる(だって、妄想の外にあるはずの現実が彼らには見えないのだから)。


しかし、ネットおよび街に跋扈するヘイターたちは、「出家」して「サティアン」に住んでいるわけではない。市井の人々である(らしいのだ)。ここに95年と、現在2016年の違いがある。ファンタジー(妄想)を信じるのに物理的な囲い込みはもはや必要となくなった。ネットがあれば勝手に分断されつつ妄想の増幅が可能となった。オウム信者のように道場にこもっているわけではない。ヘイターの妄想は、ネットを、メディアを、そして街頭に少しずつ少しずつ溢れていく。彼らの使う言葉は、巧妙に私たちの言葉と重なる。同種の言葉で紡がれた妄想は、感染力が強い。


今から思えばオウム真理教の悪は、分かりやすかった。そして対処しやすかった。法律で処罰もできる。現在の悪は、もっと狡猾で、手ごわい。村上春樹は、多分、ヘイトの被害者にも加害者にもインタビューしないだろう。彼にとっては、あまりにも「政治的」過ぎるからだろうか。それともあまりに世俗的な悪だからだろうか。