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楽しくなければプロパガンダじゃない 辻田真佐憲『たのしいプロパガンダ』(イースト新書α)

たのしいプロパガンダ (イースト新書Q)

たのしいプロパガンダ (イースト新書Q)


プロパガンダとは何か? そもそもは「宣伝」と訳されていたが、ここでは政治的な意図にもとづき相手に影響を与えようとする行為全般を指す。特に、政府や軍といった権力が行うもの。


本書は戦前の日本から始まり、ヨーロッパ、アメリカ、ソビエト北朝鮮、中国、それに宗教(オウム真理教とIS)のプロパガンダ事情を、具体例を紹介しながら明らかにする。最後には「右傾エンタメ」という言葉と共に、現代日本プロパガンダを考察。


タイトルが主題そのもの。上手なプロパガンダとは、上からの押し付けではない。企業と官憲が協働し、娯楽を求める大衆に楽しいものを提供する。その中にするりと滑り込んでいるのがプロパガンダなのだ。戦前の日本軍は、第一次世界大戦でドイツの敗北を横目に、国民の支持がなければ総力戦たる戦争に勝つことはできないと悟り、宝塚とタイアップしたプロパガンダ演劇を作っている。発想は間違ってはいない(倫理的に正しいかどうかはおいておくとして)。本土の外で戦闘する敵兵に向けて20カ国語で放送を用意するなんてこともしていたようだ。


気になるのは現代の状況。辻田は「右傾エンタメ」を、単にミリタリーを肯定的に描くだけではなく、作者による読者の思想誘導があるものと定義している。百田尚樹『永遠の0』が俎上にあがっている。この本が、基本「戦争は良くない」という反戦小説として読まれているというのはさておき、現代日本において「右傾エンタメ」が(来るべき?)戦争のためのプロパガンダとなりえるか、というのは難しい論点だと思う。


というのも、戦後民主主義はなによりも個人を尊重してきたからだ。戦前のように天皇>個人ではない現代に、個人よりも大きな何かのために個人の命を犠牲にする、それも人殺し(戦争)でという思想を、いくらエンタメと混合させたからといって、一般読者(大衆)は支持するのであろうか? 


戦前のエンタメ業界はなかなか曲者で、軍が都合の悪いものを発禁にするので、軍の意向を自然、忖度するようになり、結果、軍と民が協力しあって、大衆の娯楽を求める心にこれでもかとプロパガンダ・エンタメ(楽しいプロパガンダ)を提供していたのだ。メディアが権力(政府)に対する批判をしなくなったら、こんなになっちまうのか、という例でもある。


でもさ、考えてみればエンタメって個人が楽しむものだ。個人が個人としてエンタメを楽しんでいると、いつの間にかプロパガンダ接触し、やがて個を超えた大きな何か(戦前なら天皇、今のアメリカなら「世界の警察」思想?)に突き動かされるようになる…のだろうか。そりゃあたしかにエンタメには人の心を動かす力はあると思う。あると思うが、人を戦争に駆り立てるほどの力はあるのかなあ、とつい懐疑的になってしまうのは、私が戦後民主主義にどっぷり浸かった人間だからだろうか。


それとも個人でい続けること、というのはそもそも辛いことなんだろうか。今の日本を見ていると、なんとなくそんなことを感じた。(この辺のくだりは、本書とはほとんど関係ない。)