ゴミの生活(四代目)

最近はアマプラをdigってます

震災後文学って何だ ――吉村萬壱『ボラード病』(文藝春秋)

ボラード病

ボラード病

8年前の災害から復興しつつある海沿いの街・海塚。そこに住む小学生・大栗恭子が語り手。厳格な母親の厳しいしつけを受けながら、貧しい生活を送る。彼女の視点から見る海塚の街も人は、どこか歪んで、どこか気持ちが悪い。読者はその居心地の悪さ(度のずれためがねをかけているかのような)を、始終、体験し続ける。


恭子の通う学校では、クラスメイトや教師が突然倒れ死んでしまう。でも死は何も遠いものではない。その街に生きるのであれば、当たり前のように受け止めるべきものになっている。少なくとも、彼女の回りの人間にとって。母親は徹底的に食べ物を拒否する。この土地でとれたものは、決して口にしない。(他の人の手前)買っても、どこかで処分してしまう。


クライマックスは、母親の病気後に、恭子が周囲に溶け込むことを決めたときだ。ひとたび溶け込んでしまうと、あまりに心地よく、それ以前に感じていたこちらとあちらの壁が、そもそもそんなものはなかったのかと思えてしまう。だが、恭子はすんなりと「あちら」に溶け込めたわけではなかった。仲間に入れてもらったと感じたのもつかの間、彼女は「施設」へと連れて行かれてしまう。


20年後、その施設にまだいる恭子。読者は、恭子が書いた言葉を目にしているのだと気がつく。


「震災後文学」と、ひとまず言えそうだ。災害後。病気。同調圧力。絆。作中では、はっきりとは記されずほのめかしだけに留まるが、現実世界にはその対応物を見つけることはたやすい。災害からの復興を目指す過程で強力な同調圧力によって共同体がゆがめられてしまうという現象は、何も311震災だけのことではない、とは思う。便宜的に「復興ディストピア」と呼んでみるが、この復興ディストピアをポスト311に登場した「震災後文学」の特徴としてしまうのは、問題があるように思う。


震災後文学、とひとまずはいえるが、では震災後文学とは何か? と考えていくと行き詰る。震災後に雨後のたけのこのように生産された、それっぽいことを描いて問題意識を示した「(なんちゃって)震災後文学」なのかもしれない。