ゴミの生活(四代目)

最近はアマプラをdigってます

私たちはリア充ではない…? ――朝井リョウ『もういちど生まれる』幻冬舎文庫

朝井リョウ、お得意の連作短篇。各話、異なる視点人物。一人一人が微妙に重なる感じ。そうすることで一冊読み終えると、ぼんやりとだが全体像が見える。通称『桐島』メソッド(と勝手に命名)。2011年に単行本が出でいる(私が読んだのは文庫)。この後に、直木賞をとった『何者』が出る。登場人物の年齢も『桐島』が高校生、『もういちど』が20歳前後の大学生・専門学校生、『何者』が就活中の大学生と上にあがっていく。作品をまたいで登場する人物はいないが、問題意識は引継がれているのだと思う。事実、『もういちど』には「何者」かになりたいけれど「何者」にも(まだ)なれないもどかしさ・葛藤が焦点となる短篇も入っている。このあたりから「何者」が朝井リョウのなかでキーワードになっていた可能性は高い。


サークル活動を楽しむリア充(っぽいだけ?)、好きになってはいけない人を好気になってしまった人、自主制作映画の監督、芸術大学の学生、ダンスの道を究め本当に「すごい」に到達しようとする専門学校生、読者モデル、その読者モデルを双子の姉に持つ浪人生(予備校の先生に恋をしている)。などなど。繰り返すけれど、ある話では視点人物だった人が、別の話にも登場していて、人間が立体的に見えるのは良くできているし、面白い。


それにしても。リア充、である。「リア充嫌悪」とまでは行かないが、屈託無く人生を(キャンパスライフを)楽しんでいる人間への嫉妬(のようなもの?)が作者から見えるのはなぜだろう。考えみれば『桐島』にも、「美人だけれど何も深く考えていない女の子」が登場し、野球部のエース(サボって練習に参加していないけど)と付き合っていた。『もういちど』であれば、その役割は読者モデルの椿が担っている。コンプレックスのカタマリである妹がいることで、一層、椿の無邪気さは際立つ。(ここでの「リア充」は椿を念頭においている。毎日を精一杯楽しんでいれば誰しもが「リア充」になれるし、実際、そういう人も出ているが、ここはあくまで仮想敵としてのリア充。)


ここまでだったら『桐島』と似たようなものなのだが。実は椿は高校時代、クラスで浮いていた、という昔話が挿入されるのだ。そりゃあそうだ、リア充過ぎて周りも引いてしまう。『桐島』にはなかったリア充女子の内面が本作品では描かれている。


でも、なんでだろう? そんなにリア充が嫌いなのだろうか? これは単に本を読む人(読者、そして作者自身でもある)に内省的な人が多いから、ではないか。内省的というとちとアレだが、きゃぴきゃぴしているリア充と対極に位置する人たち。文化系というか、なんというか。


最近は落ち着いたのかもしれないが、一時期、本を読むことに関する小説がどばばっと出たことがあった。図書館や書店を舞台にし、書店員や司書が主人公。本と本を読むことが好きな人間が登場し、それを本好きが読む。エンタメだから好きなものを読めばいいと思うが、どこか引っかかる。本は世界を広げるとそういう作品の登場人物たちは言うのだが、果たして読者の世界は広がるのか。なんかマッチポンプ感がぬぐえない。本好きな自分が好きだと再確認しているような、どこかナルシスティックな視線がこの手の小説には向けられている気がしている。ナルシスティックな欲望がこの手のエンタメを求めている気がする。朝井リョウもこの流れに乗っているかもしれない。


と、批判めいたことを書いたが、作品はやっぱり面白い。オープンエンドで続きが気になり、ありえないけれど続篇が読みたい。それくらい登場人物のその後が気になる。まあ、きっと、うまくやっているだろう。と自分に言って安心させている。