ゴミの生活(四代目)

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資本主義社会でのモノとの付き合い方――近藤麻里恵『人生がときめく片づけの魔法』(サンマーク出版)

人生がときめく片づけの魔法

人生がときめく片づけの魔法

バカ売れしている本。ハウツー本だからブックオフなら100円コーナーにあるかと思ったけれど、その考えは甘かった。人気作であることはブックオフでも変わらず。半額で購入。実は、この手のハウツー本は読んだことがなかった。でも、それなりの需要があって本屋(新刊書店でも、古本屋でも)棚にたくさんのハウツーが置いてあることは知っている。


ハウツー本を手にしない理由は「そんなん、勝手にやればいいだろ」と、自分では思っていた。それでも、コンマリ本をわざわざ手にしたのは、「そんなに売れているなら何か壮大な秘密があるに違いない」と(勝手に)考えた。内容はどうであれ、多くの人に手に届く本(本に限らずコンテンツ全般)は、客のニーズを明確につかんだ何かがあるというのは一般的に言えることで、コンマリの偉大さを知って何かの役に立てようと思ったのであった。だらだらと回りくどくなってしまったが、要は片付けのハウツー本というよりも、ベストセラーのハウツー本として読めないか、ということだ。


片付けの本、だ。序盤は、コンマリ流片付けの基本的な考え方(哲学)。中盤は、具体的にモノ別の片付け方。終盤は、各論を踏まえつつ再び総論。特徴的なのは(すでにあらゆるところで指摘されていると思うが)コンマリがいかにして今のコンマリ流片付け法にたどり着いたか、その試行錯誤が自伝的に語られているところだろう。どのようにコンマリが出来上がったのかを赤裸々に書くことで、読者も「コンマリになれるかも!?」と思える仕組みになっている。コンマリは小さい頃から片付けマニアで、いろいろな片付け法を実践してきた。中には上手く行ったものもあるけれど、その大半は失敗・上手くいかなかったのだ。ここらで片付け本を手にする人の「あるある心」をくすぐるのだろう。


コンマリ流片付けの極意は、「手にしてときめかないものは捨てる」だ。徹底的に、そして真剣にモノと向き合うこと。その精神を身に着けることがレッスンの至上命題。しかしひとたびコンマリ精神を身に着けてしまうと、絶対にリバウンドしない(のだそうだ)。


しかし「ときめく・ときめかない」ってなんだ? 自分がそのモノを使って・身に着けて、楽しんでいるところを想像できるかどうか。「ときめき」は過去の思い出ともまた異なる。思い出は思い出。今、ときめくかどうかはまた別。読み終わった本、それも楽しくていつか読み直そうと思っている本、でも実際には読み直すなんてことはしない。実は、そういった本は、すでに役割を終えている、だから捨ててしまおう。捨ててしまえば、その本も喜ぶだろう。そう、コンマリは語りかける。


捨てることで今の自分には本当に何が必要かが見えてくる。


でも、ふとこう考えてしまう。捨てなければならないモノを買う・持っているということは、そもそも自分が何が欲しいのかわかっていなかったのではないだろうか? そう、私たちは皆、等しく資本主義の迷い子ではないのか? コンマリは、しかし、モノをきちんと捨てること、モノと向き合って自分がときめくかときめかないか自分を基準にモノとの関係を捉えなおすことが重要だという。モノがどう自分に働きかけるか、ではなくて、自分がどうモノに働きかけるか、なのだ。もし自分がモノに働きかけられる(ときめく)のであればキープするし、そうでないならば捨てる。この「捨てる」も、自分とモノとの関係性を切断しているようにみえて(いや、実際に切断しているのだが)、コンマリの語りの中では、捨てることも一つの濃密な自分とモノとの関係性なのだ。正しいときに捨てられることで、モノは天寿を全うできる。


この本には具体的なハウツーも書いてある。でも、それよりも重要なのは、読者の内面の変化を促すことだろう。でも、どうやって内面の変化を促すのか? 本を読むだけで、内面の変化を人は遂げられるだろうか? ハウツー本買う人間の内面は、そんなにころころ変化するのであろうか? なかなか変化しない・できないから、幾度となくハウツー本を買うのではないのか。


コンマリは、部屋のモノを捨てることを読者にさせる。捨てるという具体的な行為を通じて、読者の内面に変化を引き起こすのだ。コンマリにとって捨てるとは単に捨てることではない。モノを通じて自分を見つめなおすことなのだ。だから、内面の変化を引き起こしうる。


この本も、読んでこうして記事にしたので、自分の中での役割を終えたと思う。だから古本屋に売るのだ。こうしてコンマリは伝播していく。