ゴミの生活(四代目)

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上京したことないけど、なんとなくそれが感じられる――豊島ミホ『檸檬のころ』(幻冬舎文庫)

檸檬のころ (幻冬舎文庫)

檸檬のころ (幻冬舎文庫)

こういっては何だけれど朝井リョウ桐島、部活やめるってよ』みたいな連作短編集。ただし『桐島』は二つの空虚を抱えている。一つは「桐島が部活をやめる」こと、もう一つは「その桐島が本編には登場しないこと」。どうにも『桐島』は、穴なのだ。穴の回りをぐるぐるとみんなで徘徊しているイメージ。映画版は、映画史に接続して、このぐるぐる徘徊をゾンビになぞらえたところが秀逸だった。原作小説はもっと実直だ。


さて、『檸檬のころ』。とある地方の高校が舞台。生徒だけでなく、寮の管理人、実家が学校近くの商店を営んでいるOB、問題児を抱える担任教師なども登場。一番、多く登場するのは吹奏楽部の女の子と、彼女と付き合うようになった野球部のエース。最終話「雪の降る町、花に散る花」は、大学進学を機にふたりに別れが訪れる、というものだ。新しい生活への期待や不安、生まれ育った土地と家族とそして仲間たちと別れる寂しさが、丹念に描かれる。携帯電話を買いたくない、「どこでも誰とでも繋がれる」という気持ちにさせるだけで、実際には大事な人は傍にいないのだから、と彼女は思う。


そういえば、携帯電話会社のCMで、地方からの上京と友達と「繋がれる」ことを重ねたものがあったなあ、と思い出す(作中の彼女も言及しているが)。だからこれ自体は、よくある喪失と物語なのだ。それこそCMになってしまうくらい。CMというのは視聴者=消費者の感情移入を喚起するものだから。二段階に織り込まれていない分、『桐島』よりも、普遍性を感じる。事実、巻末解説でも「ふつうをかがやかす達人」と高橋敏夫に評されている。


「ふつう」って大事。素直に、楽しめる。はらはら、どきどき、わくわくしつつ読んだ。これ、大事。あと、個人的な話を混ぜると、自分には上京経験はない。引越しは今まで3度ほどしたが、都内のある区から隣接する区へ移るか、または同じ区内で動くかなのだ。人間関係のリセット/リニューアルもない。転職もしたことはない。だから、作中で描かれている別離は、私個人のものではまったくないのだが、それでも感情移入できてしまうのだから、「ふつうにおもしろい」。


青春連作短編集って、けっこう、名作あると思う。(といってすぐに出てこないが、あれか、桃尻娘シリーズか?)