ゴミの生活(四代目)

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世俗の人なのか、聖人なのか――二神能基『ニートがひらく幸福社会ニッポン』(明石書店)

ニートがひらく幸福社会ニッポン――「進化系人類」が働き方・生き方を変える

ニートがひらく幸福社会ニッポン――「進化系人類」が働き方・生き方を変える

(本文704文字)

扇情的なタイトル。筆者はひきこもり・ニートをサポートするNPO法人に長らく携わる。団塊世代の人間。本書の面白いところはニートを新旧価値観の対立ととらえること。20世紀的交換経済から21世紀的贈与経済への転換期に、親世代と子供世代の価値観の対立として、家庭内の問題(ひきこもり、ニート)が生じてきているとする。反仕事第一主義、反経済成長の象徴としてのニート。ダウンシフターズだ。(イケハヤ氏がブログで紹介していたな…)


本書の問題はしかしそこにもある。そもそもニートは経済の用語。雇用もされておらず、教育も職業訓練もうけていない状態の人間を指す。本人の哲学は関係ない。本書のニートの定義はかなりファジーで、働いているニートもいる。(年収200万円のニート、といったように)そこを明記しないと。あと経済のニートを精神のニートに帰すると、貧困も「選び取ったもの」という自己責任に摩り替わる可能性がある。


NPOで見たたくさんの事例をもとに、親世代が自分たちの価値観を押し付け子供世代を抑圧した結果、家族がぐちゃぐちゃになるという話をする。なるほど。ニートやひきこもりに向かって親が「コミュニケーションができない」と責めるが、問題は親世代にあるのでは? という指摘も、もっともだ。本当に子供世代の声と気持ちを聞いたのだろうか? 経済的な脅迫をしていないだろうか? 親世代はすべき。1年を超えて長期化した場合、家族だけで解決は難しい、という実践的アドバイス斉藤環のものと通じる。生活スタイルそのものを変える必要もあるのだろう。


筆者がニートをこの国の希望と見たくなる気持ちも分かるが、果たしてニートは世俗から離れた「聖人」なのだろうか。