ゴミの生活(四代目)

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石黒浩『アンドロイドは人間になれるか』(文春新書)


タイトルの問い「アンドロイドは人間になれるか」。やがて可能だろう、と本書を読んだあとに感じた。


ただし。アンドロイドの定義は比較的簡単で外見的に人間に似ているロボットとなるが、人間の定義が、これまた、なかなか難しい。何をしたら「人間」といえるのであろうか? 人間とは何か、をまず考えないことには「アンドロイドが人間になれるか」どうかを考えられない。本書は石黒が作ってきたアンドロイド(ロボット含む)をさまざま紹介しながら、「人間とは何か」を考えていくものでもある。


人間が持っている(とされる)心は、外在的に確認できるものではなく、「心がある」と感じられれば心があるといえると石黒は考えている。その上で、心を単なるソフトウェア(つまりコンピューター上を走る人工知能)とするのではなく、外見・声・動き等の要素(モダリティと呼ばれる)を媒介することで、「心がある」と思わせられると石黒はいう。人間の脳に「ここには心がある」と誤解させれば、それは心になる。言い方は難しいが、最初から誤解ではないのだ。誤解が正解になる。


「ここに心がある」と思ってもらうには、いくつかの仕掛けが有効だ。外見をそっくりにする、というのも一つである。石黒自身やマツコデラックス、落語家の米朝をモデルに、そっくりなアンドロイドをすでに何体も作っている。石黒は他に、人間をシンプルな抱き枕のようにデザインした抱き枕+発信機なんてものも開発している。抱きしめながら他の人とコミュケーションができるのだ。「抱きしめる」ことで脳内のストレスホルモンが軽減し、男女間でやると恋愛感情に近い親密な気持ちを抱く(らしい…恐ろしいな)。


人間の感覚器官をいかに誤解させるか(ハッキングするか)。


人間がアンドロイドを見て、心があると感じるには、超えなければならない問題があるようにも思う。石黒が作ろうとしている欲求−意図−行動の3つの階層をもつロボット、が問題点を明らかにしている。人間が、例えば知能がまだ発達しきっていない赤ちゃんを見ても「心がある」と感じられるのは、その赤ちゃんにも自分同様に欲求−意図−行動のサイクルをもっていることが、直感的に理解されるからだ。泣いている(行動)を見て、ミルクを口にしたい(意図)、なぜならお腹が減っている(欲求)のだと私たちは自然に考える。このサイクルは心の動き(の一部)をモデル化したものだ。


アンドロイドにこのサイクルを持たせることは、とても難しい。行動、意図、欲求と遡っていくと、どこかで「そうプログラムされているから」と思われてしまう気がする。アンドロイドの欲求は、それをプログラムした人の欲求を反映したものではないか? アンドロイドが芸術作品を生み出した場合も、似たような事態が生じる。その作品をアンドロイドの生み出したものと考えるのではなく、その背後にいるアンドロイドを作った人間が作ったものと考えてしまうのではないか?


真に内発的な欲求である、創造性であると他の人に感じさせるには、欠如が必要だ。自分の中に何か足りていないものがあり、それを埋めるための生理的・創造的欲求。そこまで踏み込んだアンドロイドを作ることができれば、心まであと少し。


いや、そこまで複雑にする必要もないのかもしれない。紹介されている平田オリザとの共同実験(?)、アンドロイド演劇では、いかにもなロボット然した登場(人?)物に、観客は心を見る、というのだから。残念ながらアンドロイド演劇は未見なので、今後、機会があればぜひ見てみたい。日本屈指の劇作家・演出家が作り上げた限定された空間での話なのだが、原理的には、私たちの世界にまで舞台を広げることは可能なはず。


石黒は、将来、アンドロイドは現在のスマートフォンのように人間が世界とつながるためのインターフェイスとして機能するのではないか、という予測をしている。これ、十分にありえる。生きてそんな未来を見てみたいと思うが、果たしてあとどれくらいで実現するのだろう。