ゴミの生活(四代目)

最近はアマプラをdigってます

差別と戦うにはどうしたらよいのか? 小林健治『部落解放同盟「糾弾」史』(ちくま新書)

タイトルどおり、部落解放同盟が今までにしてきた「糾弾」を紹介したもの。


糾弾とは? 差別語(あるいは差別語ではなくても)の差別的使用をメディアで見つけたとき、その表現を使ったものや流通させたものに真意を糾し、内なる差別意識を露にさせ、差別加害者に変革を迫ることだ。部落解放同盟解同)が差別解消のためにとってきた行動の一つ。現在、解同がかつてほどの力をもてなくなったのは、糾弾にダブルスタンダードが持ち込まれているからではないか、というのが筆者の指摘。すなわち、批判をしやすいメディアを糾弾するが、政治家や権力者などには及び腰である、というものだ。橋下元大阪市長の出自をめぐるメディアの報道と、麻生太郎の差別発現をその例としてあげていた。


糾弾は、法的な行為ではない。その激しさから裁判沙汰にもなっている。裁判所の判断は、被差別者の地位回復として認められうる性質のもの、ということらしい。(とは小林が引用していたのだが、実は小林が引用していない裁判所の判決があり、そこには「しかし限度がある」という注意もあったのだ…)。


本書は解同の「糾弾をする側」から書いたものであり、どうしても「当然のこと」というニュアンスが入る。ただ、いろいろ調べてみると、糾弾の対象にしてほしくなかったら金をよこせといったようなエセ同和行為があったり、糾弾対象の選定に恣意性が入り込んだり、あまりにも激しすぎて負傷者が出たり、といったことも。こういった経緯もあって、メディアが過剰に萎縮をする、いわゆる「言葉狩り」も起こった。小林は言葉狩りはメディアが勝手にやったことだというが、糾弾が萎縮させたことは否めない。


もちろん小林が紹介している事例は、いずれも差別表現の事例であり問題だ。問題なのだが、それだけで割り切れるほど、事態は簡単ではない、というのがこの問題の根の深さか。


一番興味深く読んだのは、現在進行形で起こっているヘイトスピーチにどう立ち向かうか、というところだ。差別行為そのものを法的に取り締まることができない現状は、やはり問題だと思う。ただ、街頭に出てきた排外主義者・ネット右翼の人たちに、解放同盟的な糾弾をしても、実は効果がないのではないか、と思ってしまった。というのも、糾弾が効果を発揮するには、民主主義的な約束事、「皆、平等である」「差別は良くない」と共有したもの同士でなければならないからだ。果たして、彼ら彼女らは、この約束事を共有しているのだろうか? 排外主義者が攻撃する在日外国人たちは、例えば同和対策事業法のような法律的なバックアップもなく、日本に住んでいる。解放同盟のような組織的な反撃は、難しい。どうしたらよいのだろうか? と頭を抱えて本書を閉じた。