ゴミの生活(四代目)

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こちら側に留まり続けること――小川哲『ユートロニカのこちら側』(ハヤカワJコレクション)


第3回ハヤカワSFコンテスト、大賞受賞作。連作短編集。マイン社が運営する実験特区アガスティア・リゾート。そこでは個人のデータを全て吸い上げられるが、その情報を提供することでリゾートでの豊な生活を享受できる。なんてトレードオフ


第一章。夫婦でリゾートに移り住むが、あっという間にアガスティアに適応する妻とは対照的に、精神に不調をきたす夫。彼には「背後霊」が見える。

第二章。データ化した過去を追体験できる装置ユアーズ。幼少期に暮らしていた町全体がマイン社と契約し、データを提供していたことを知った男が、自分の過去を追体験する。

第三章。サンフランシスコ市警と、ABM(アガスティア内の警察機構)が合同で殺人事件を調査。刑事の仕事もほぼオートメーション化されている。

第四章。アガスティアで導入されている犯罪予防のためのプログラムBAP(行動ポリグラフ)。アガスティアの人間が殺人を犯したことにより、BAPに法的能力(逮捕のための証拠として使う)を持たせようとする声に対峙する開発者。

第五章。反体制的な家系に育った日本人。アガスティアから入場を拒否されたことをきっかけに、一転、興味を持ち、内部の大学へ進学。テロを画策する。

第六章。『アガスティア・プロジェクト』という本で、リゾートが人間を無意識状態にし、やがて永遠の静寂(ユートロニカ)が訪れると説いた男。その父とその息子、三世代の男たち。父は牧師で、人間の意志とは何かを考える。

各章の間には短いノンフィクションが挟まり、設定を補強している。


この作品の面白いところはいくつもあるが、もっともいいなと思ったのはタイトルにもある「こちら側」。情報管理社会が現在進行形で広がりつつある中、「あちら側」ではなく、あくまで「こちら側」に留まろうとしているところ。すでに完成した情報管理社会であればアニメ『PSYCHO-PASS』になるが、そこまでいってしまうと「意識とは何か?」「プライバシーとは何か?」といった問いが、成立しなくなってしまう。伊藤計劃『ハーモニー』のエンディング直前まで、あるいはデイヴ・エガーズザ・サークル』に近い。


情報の収集・管理・分析が以前に比べて桁違いにコストダウンしたため、例えばオーウェル1984年』では物理的に不可能だった「完全な監視社会」が実現しつつある。それに、巨大な一人の主体が、その他の大勢を従える(臣民化する)という図式ではなく、人はみな自発的に、豊な生活とのトレードオフとして、情報を嬉々として提供する。マイン社という会社は出てくるが、社長なり何なりのいわばボス的な人間(像)は全く出てこない。ビッグブラザーはいない。会社の人間として、開発者ドーフマンは出てくるが、代わりはいるという程度の扱いなのだ。こういった情報管理社会(少し前の情報社会と、もっと前の管理社会が合体した)は、作者・読者の肌感覚になじむもので、今後、作品の数はますます増えてくると思う。


だから欲を言えば、さらに一ひねりが欲しかった。『SFマガジン』のインタビューによれば、作者は続篇をとくに考えているわけでもなく、作品世界はこの作品で完結しているらしい。というのは、ややもったいない気もする。出てこなかったマイン社の裏側も知りたいといえば知りたい(前言と矛盾するようだが…)。


「こちら側」に留まる理由は、ドーフマンの次のセリフに集約される。


本当の変化は、自分たちの変化に気がつかないまま、人々の考え方やものの見方がそっと変わったときに訪れる。想像力そのものが変質するんだ。一度変わってしまえば、もう二度と元には戻れない。自分たちが元々なんだったか、想像することすらできなくなる。(243)


「あちら側」の世界を描くことはそもそも不可能だし、(たとえ描いたとしても)読者には伝わらない。原理的に。これはSFが描くたびに直面し続けてきた超人類パラドックスの反復だ。本当に人間を「超えた」のであれば、人間には理解できないし、もし人間(つまりは読者)でも理解できる超人類がいるのであれば、それは「超えた」とはいえない。前掲『ハーモニー』はetmlをメタテキストとして埋め込むことで、文体的に超人類描写に挑んでいる。


考えたのはプライバシーと自由意志は表と裏の関係にあるということ。プライバシー、つまり情報化されないところに宿るものとして自由意志が考えられるのではないか? これは第三章を読むと、強く感じる。少年犯罪が起こると「心の闇」なんて言葉がメディアで流通するが、心なんて全て闇なのだ。ただそれが良いほうに動くか悪いほうに向かうかという違いがあるだけで。


人間が何かをしようという自由意志を持つのは、その意志を持たない限り、何もできないからだ。五章に出てくる「自由とは不自由という堅固な牢獄からの脱獄者である。もし牢獄がなければ、自由は何の肩書きも持たない」とはそういうことだ。車を運転したいという自由意志を持つ前提には、車は運転しなければ動かないという不自由さがある。車の自動運転技術がデフォルトになれば、少なくとも車を運転したいという自由意志については消滅する。意識とは「脳に負荷のかかっている状態」だとも言われる。


少し気になったのは、情報の切り売りだけでどうやってリゾートは経済をまわしているのか、ということ。どこか世界の末端に生産者はいるはずだろう。世界中の人を情報管理社会のもとに包摂すると、果たしてどうなるのか? という疑問は残る。


この作品は、広い読者に届くと思う。読んだ人は「自由意志ってなんだ?」「プライバシーってなんだ?」と考えて、誰かと話したくなると思うから。