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なんでCM後の展開が分かっているバラエティ番組を、CMが終わるのを待ってまで見てしまうのか?――三浦哲哉『サスペンス映画史』(みすず書房)

サスペンス映画史

サスペンス映画史

映画研究者・三浦哲哉の東大博士号論文をもとにした本書。サスペンスをキーワードに映画の歴史をなぞる。20世紀初頭から今世紀のイーストウッドまで、幅広く網羅的だ。

従来のサスペンス論は、緊張は後に来る緩和のため、不自由はやがてもたらす自由のためにあると考えてきた。ところが三浦はそもそも映画とは観客に不自由を強いるものであるという。その不自由さがサスペンスを生んでいるのだ。三浦が考えるサスペンスの本質は、両義的な状態に観客を置くことにある。

今、目の前の映像に没入する(拘束される)、しかし来るべきエンディングを想定する(終わることを知っている)。既に終わった出来事であるフィルムを目にすることで、現在進行形で経験する。監督は全てを知っている、しかし役者として出演するときには物語に翻弄される。様々な作家、作品、映像技術が紹介されるが、基本軸はこの両義的な重ね合わせ。それによって宙吊り感覚が生まれる。三浦が強調するのは、観客の受動性だ。ただし、この受動性は映画体験を生む能動性を持っている。受動性が生み出す、というのも一つの両義性なのだ。

映画史を知りたいものにとって有用であることは間違いないが、本書のエッセンを理解するともっと多種多様な映像を異なる角度で見ることができる。

なんでCM後の展開が分かっているバラエティ番組を、CMが終わるのを待ってまで見てしまうのか?

最近のバラエティを見ていない人にはピンと来ないかもしれない。でも、最近のバラエティはそうなっている(そうなってきている)と感じる。CM前に、CM後の展開を短く紹介する。モザイク的なものをつけることもあれば、つけないことすらある。あるタレントが爆笑したり、号泣したり、激怒したり。そういった衝撃的な感情の発露と、スタジオの観客の歓声がかぶさる。で、CMに。私たち視聴者は、その後の展開を知っている。どんなリアクションをするのかも知っている。はっきりいってCM後の続きを見ることで得られる情報的価値は、ゼロに等しい。

それでも、じりじりとしながらCMを見てしまう。CM明けの続きを待ってしまう。なぜだろう?

サスペンスと同じ心理的効果が生じている。サスペンス映画では、観客はその後の展開を知っていても、ドキドキハラハラしながら見てしまう。傑作サスペンス映画は見るたびに観客を宙吊りにする。それは観客を不自由な状態にすることによる。

CMによって見ることを強制的に中断させられる視聴者。ここには倒錯がある。だって、見ることを中断させられたのであれば、見なければ良いのだ。だが、その選択肢は最初からない。テレビを見るという受動性に囚われているから。囚われた視聴者はCMという障害を耐え(それもまた体験だ)、続きを見るのだ。

バラエティ番組で取り扱われるネタのほとんどがネットに落ちている、調べれば分かるという状況で、それでも番組を成立させるには、どのような作りにすれば良いのだろうか? テレビがなかなか「死なない」理由は、映像100年の歴史の蓄積を、(おそらく無意識に)流用しているからではないか。