ゴミの生活(四代目)

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35年たってもきらきらしてる?――田中康夫『なんとなく、クリスタル』(新潮文庫)

前から読んでみたいと思っていた小説。古本屋で探しても見つからないし、かといって新刊で買うほどのものでもない(薄いわりに高い)。図書館の廃棄図書で出ていたのを運よくゲット。

モデルの仕事もしている女子大生と、ミュージシャンでもある大学生の彼氏。二人の関係を軸に、きらきらとした(だらだらとした)日常が、膨大な註とともに語られる。単行本のときはどうなっていたかわからないが、少なくともこの文庫版では、右ページが本文、左ページが註ときれいにわかれている。註のないページにはよくわからない抽象画が挿絵になっている。

「結局ね、ブランドに弱いんだよね。僕らの世代って。ま、僕らの世代というより、日本人全体がそうなのかな」

とくさされるように、本文にこれでもかとこびりついている註は、ブランドの紹介が大半だ。古市憲寿っぽく、客観的な説明と言うよりも多少の皮肉や揶揄がブレンドされている(思っていた以上に抑制的だけど)。若者たちの生活を切り取ったらブランド固有名に囲まれたものになり、それをそのまま書いても内輪小説になるから、註をつけてみた、とあとがきで田中自身は述べている。この註をつけるという行為自体が、当時の文化に批評的な機能をもち、高く評価されたのだった。

ストーリーは、はっきりいって、ない。でもまあ、ストーリーのなさ加減とブランド固有名のちりばめ具合が絶妙。

「クリスタルか……。ねえ、今思ったんだけどさ、僕らって、青春とはなにか! 恋愛とはなにか! なんて、哲学少年みたいに考えたことってないじゃない? 本もあんまし読んでいないし、バカみたいになって一つのことに熱中することもないと思わない? でも、頭の中は空っぽでもないし、曇ってもいないよね。醒め切っているわけでもないし、湿った感じじゃもちろんないし。それに人の意見をそのまま鵜呑みにするほど、単純でもないしさ」

二人が一緒になると、なんとなく気分のいい、クリスタルな生き方ができそうだった。

実はこの小説は1980年6月の東京を舞台にしている。表紙をめくった1ページに目に大きく書いてある。はー25年も前のことか…と思ってしまったが、いやいやこれは35年前のものだ。20歳の大学生も、今なら55歳のおっさん・おばさんになっている! 

35年前。ちょっとしたタイムマシン。35年前はなんと退屈だったことか。新しいきらきらしたものに飛びつくのではなく、なるべくクールに取り扱おうとしているのだけれど、でもまあ、その「新しいもの」がなんか「もっさり」している。イモっぽい。35年前なので、しょうがないけど。

iPhoneはおろかインターネットすらなかった時代、ブランド固有名は註をつければ処理できるほどの数しかなかったのだろう。いまでは全部、Wikipediaへのリンクを埋め込みでもしなければ、やっていられない。

当時は「消費社会の到来」だなんだと散々、言われたのだろう。到来しそうだから騒がれたのであって、とっくに街中・家中・体中に消費社会が浸透しきっている現代の私たちにとっては、いまさらどうのこうのと騒ぐ気すら起こらない。空気がそこにあることに、いちいち感動を覚えないことと同じだ。

新しいものをちょっとクールに受け止めるというのは、でも、時代を超えて見られる若者の姿勢なのかもしれない。本書がどこか時代を超えているのは(というと大げさだが、今読んでも、それなりに読めるのは)、青春小説のエッセンスが混入しているからだろう。

手元には『33年後のなんとなく、クリスタル』がある。