ゴミの生活(四代目)

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変化は徐々にしかし確実に――中島岳志・島薗進『愛国と信仰の構造』(集英社新書)

(本文757文字)

宗教学者島薗進政治学者・中島岳志の対談本。明治から敗戦までが75年、敗戦から現在までがだいたい75年。この75年を25年ごとの3つのフェーズに分けて、政治と宗教のかかわりを確認していく。

第二次世界大戦ファシズム、軍部の暴走。と考えるのはたやすいが、現実は違う。国家主導の上からのナショナリズムもあれば、民衆からの下からのナショナリズムもあった。下からのナショナリズムでは、仏教(具体的な親鸞主義と日蓮主義が重要だと紹介されている)や、のちに革新右翼化していく煩悶青年(エリート)が役割を果たしたようだ。

私は、明治維新は「どうして天皇を廃し共和制を選択しなかったのか」と疑問に思うことが多い。本書では、明治維新を西洋からの立憲デモクラシーと天皇を中心とした王政復古のアマルガム(混合物)であると考える。例えば天皇機関説事件や統帥権の制度的問題によりこのバランスが崩れていき、立憲主義は破壊された、とする。明治革命ではなく明治維新封建社会の身分制を壊すのに、天皇のもとの国民平等=「一君万民」が唱えられた。

左翼=革新、右翼=保守という分類も単純すぎるようだ。一君万民、ユートピア、世界国家を樹立するために、君側の奸(天皇の意志を邪魔する悪いやつ)を取り除こうとする右翼は、平等や人権の徹底を求めることもする。

戦前の第3フェーズと今が重なるとしたら、どこか? 両者がいうのは「立憲主義の危機」。トポス(地に足の着いた生活空間)を失った根無し草大衆の増加。無差別殺人は敵を名指せないテロリズムであり、誰でもよかったは「誰かを狙えなかった」と読み替えられる。

明治維新から75年たどっていくと、徐々に、しかし、決定的な変化はいくつも起こっている。当時の人間は、その変化を「変化」と気づいたのであろうか? 私たちは気づけるのだろうか?